書評 ツァラトゥストラはこういった
"ツァラトゥストラはこう言った"を読みました。
ニーチェは学生時代に読んだことがありましたが、当時の言語能力では太刀打ちできず途中で投げ出していました。
今回はなんとか読むことができました。
言っている意味がわからず、文字を追っていくだけのような感覚になる部分もだいぶありましたが、途中で投げ出した本が読めただけもレベルアップかなと思います。
さて、ただ読んで終わりとしてしまうと、ニーチェからなんの学びも受けないので、アウトプットしていきたいと思います。
とは言っても、”神は死んだ””超人””永劫回帰”等にあたりのニーチェ哲学の真骨頂のようなところは到底理解できていないので、現段階における私にとって印象に残った部分を備忘録としてまとめていきます。
隣人への愛
私が印象に残ったのは隣人の愛の以下の部分
”あなたがたは隣人のまわりにむらがり、それをさも美しいことのように言う。しかし私はあなたがたにいう。あなたがたの隣人への愛は、あなたがた自身への愛がうまくいかないからだ。あなたがたはあなたがた自身から逃げ出して、隣人のところへいくのであり、それを美徳にしたいと思うのだ。しかし、わたしはあなたがたの「無私」を見抜いている”
ニーチェは隣人への愛を否定しています。なぜかというと、自分自身から逃げ出して、隣人のところへいくのであり、それを美徳にしたいと思うからです。
つまりどういうこと?と思いますが、私なりの解釈をしていきます。
隣人というのは、友達や知り合いのことと解釈します。
友達や知り合いと群がるのは、自分自身を見つめることを避けていることになります。
群がることで、集団に属しているという安心感を得たり、周りの人間から評価されたいという承認欲求を満たしたりします。
集団にいれば、自分自身の役割やキャラクターというものがなんとなくわかり、自分がどういう人間かというのがわかります。
しかし、これはあくまで周りの人からみた自分の姿であり、自分自身ではありません。
自分自身はどうやったらわかるのかというと自分で考えるほか無いのですが、これには大変な労力がかかるため、隣人への愛に逃げる、というわけです。
「周りの人間によって自分自身がどういう人間かということを決めてもらう、そのほうが楽だから。自分のことを自分自身でどういう人間なのか考えるということを放棄している」という感じです。
こういった帰属意識を”あなたがたはあなたがた自身から逃げ出して、隣人のところへいくのであり、それを美徳にしたいと思うのだ。”とニーチェは批判しています。
そして、この”わたしはあなたがたの「無私」を見抜いている”という
部分。
結局は周りからみた自分など本当の自分ではありません。なので、その集団の中で役割やキャラクターを演じることに対して疲れるようになります。
ニーチェはこのことを「無私」と言っているわけです。
遠人への愛
ではどうすればいいのかというと、自分の中に友を見つけなさいとニーチェは言っています。
”わたしはあなたがたに友を教えよう。その内部で、世界がすでに完成している友、善の杯である友、完成した世界をいつでも贈ろうとしている想像する友を”
とありますが、これは、「未来を肯定的に捉える自分、自分の夢や希望をいつでも送ろうとしている自分」のことだと解釈しています。
「友達や知り合いと群れてばかりではなく、自分の未来や、夢、希望について考える時間をしっかり設けなさい。そして、しっかり考えることができたら、それを達成できるよう常に自分と向き合いなさい」という感じですかね。
ニーチェはこの自分自身を向き合うこと、将来の自分と向き合うということを「遠人の愛」と説きました。
ニーチェは、隣人への愛(友達や知り合いとの時間)よりも遠人の愛(自分自身との時間)を大切にしなさいと言っているわけです。
以上、私が心に残った部分を一部抜粋してまとめてみました。他に印象に残った「贈り与える徳」や「自己越克」といった部分もまとめようと思いましたが、今の私の能力では隣人への愛をまとめるだけで精一杯でした。
難解で読みづらい本ではありますが、ニーチェの考えがビリビリと伝わってくるそういった本でした。
何度も読み返して理解を深めたい本であります。