損か得かで考えない
最近は、自分の好きなように生きているようにしている。
前までは、勉強したり、実益になりそうな本を読んだりしていたけど、今は、ゲームがやりたいと思ったらゲームをやるし、文を書きたいなら文を書くし、本を読みたいなら本を読む。
今までは、これをやって何かメリットはあるのか?という事ばかり考えていたなあ。
メリットのある、ない、なんてわかる訳が無い。それはエゴの考えだ。
自分がやりたいならやればいいじゃないか。抑圧する必要はないと思う。
メリットや利益を求めてキリキリ過ごすよりも、自分のペースで過ごす方が穏やかにいられる。
周りにもいい影響をあたえる。キリキリした人が一人でもいると、雰囲気が重くなるから。
周りにキリキリした雰囲気を与えてまで、メリットや利益を追求することに意味があるのか。
自分のペースで生きよう。穏やかでいよう。
一旦全てを受け入れる
不満を言わない生活を21日間送るという目標を立て実行しているけど、
なかなかクリアできない。それどころか1日も突破できない。
どうして不満を言うのか考えてみた。
・自分は絶対に正しいと思っている
・こうすればよかった、ああすればよかったと変えられない過去に対して嘆いている
この2つが主にあるかな。
一旦全てを受け入れよう。
相手が何か言ってきても、まず聞こう。そして自分にも意見があるなら聞いた上で話そう。
「こうすればよかった」と思っても、現状を受け入れよう。そこから変えていけばいい。
特に不満を言いやすいのは身内と話す時だ。その時は自分が絶対に正しいという気持ちが強い。だから注意しよう。
仕事で、こう言ったほうがよかったかな?、そんな言い方しなくていいじゃないか
、業務で決まっているんだからちゃんとやれ、こう決まったから、こいつは仕事をしない、みたいなことをよく思っている。
よく考えたら、何か意見を言われても否定の気持ちが沸いてることの方が多い。
前に、妻に「否定から入るからそれはやめたほうがいい」と言った事があるけど、
私もそうなのかもしれないということに、遅まきながら気づいた。
相手に対して不満を持つことは、その不満の部分が自分にもあるということ。
できない自分を認める
私には、「素直に謝る」という気持ちが足りない。
昨日、一昨日の2日間、長崎県にあるハウステンボスへ、妻と愛犬の3人で行った。
楽しかったが、喧嘩した時間の方が多かった気がする。
ひょんなことで不機嫌になってしまう。今思えばなんであんな些細なことで不機嫌になってしまったんだろうと思う。
妻から注意を受けたりするとムスッとなってしまう。
いろいろ考えたけど、理由はさまざまあると思った。
・プライドが高くて自分が正しいと思っているから
・できない自分、失敗した自分を暴かられるのが怖いから
こういった気持ちがある。
注意を受けたりすると、できなかった自分を見透かされているような気持ちになってしまう。自分が傷つけられた気持ちになってしまう。
そして、自分はできる、自分は正しいという気持ちが強いからなかなか受け入れられない。
だから、できない自分を認めようと思った。
できなくて、注意を受けたり、怒られたり、したら素直に謝ろう。
向こうは本当にアドバイス程度で言っている時もある。注意をしているや、怒っているというのもこっちが勝手に解釈している部分があると思う。
できていない自分を認めたくないから、悪く言われているように聞こえるのかもしれない。
思えば、昔から「人からできていないと思われているんじゃないか」とびくびくしているな。何かを始めるにしても、できない自分を見られるのが怖かった。
もう素直になろう。できない自分を認めよう。できなくてもいいじゃないか。素直に認めてできるようになればいい。
相手から言われることを恐れず、言われた時は素直に謝ればいい。
自分が傷つけられたように感じる必要はないよ。
書評 人間とは何か マーク・トウェイン著
人間とは何か(マーク・トウェイン著)を読みました。
私は、なんか知らんけど「生きている意味がわからない」と日常的に感じるタイプの人間なので、本書のペシミズムな考えは割とすんなり入ってきました。
では適当に感想文を書いていきます。
最初に出てくるのが
「人間は、自分の精神的安定を第一に考えて行動する。第一に自分のために動き、第二に他者のために動く」
「人間は外部からの影響を受けて動く」
「人間は機械である」
という主張です。
例えば、国のために出兵した臆病な男。
戦場へ行く恐怖と、出兵しないことによる周りからの評判を天平にかけた時、後者の方が自分にとって苦痛だから出兵します。
臆病な男が国のために勇気を出して出兵した、という風に見えますが、実は「周りから白い目で見られるのが嫌だから」という自分の都合で出兵しているのです。
一見利他的な行動でさえも、自分の精神的安定を第一に考えて人間は行動するというわけです。
他にもいうと、おばあちゃんを助ける、なけなしの金をホームレスにやるみたいな利他的な行動も、自分がそうせずにはいられない何かがあり、人を助けるよりもそれを満たすことが第一になっています。
自分がそうせずにはいられない何かというのは、幼い頃受けた教育や家庭環境によって形成された思想といったものです。
困っている人を見たら助けなさい、と親から言われていれば、そうせずにはいられない自分が出来上がります。
そして、次の主張に「人間は外部からの影響を受けて動く」というのがありますが、
上記の出兵の話で例えると臆病に育てば、兵士になることに臆病になるし、たくましく育てば、兵士になることになんら疑問を持ったりはしません。
決断というのは、自分で考え出したもののように思えるが、結局は外部から受けた影響の結果であり、自分で考えたものではないのです。
困った人を助けるというのは、困っているから助けるのではなく、「困っている人がいたら助けなさい」という教育を受けてきたから助けているのです。
これらをみると、人間は外部から受けた影響で機械的に動いていることになります。
私は普段どんなことを考えているのか振り返ってみたました。
勉強をすれば高度が仕事ができるようになり年収が増える、といったことをよく考えています。
確かにこれがいつ身についたのかと考えると、本に書いてあったことであったり、人から唆されたりした結果です。
自分がある日突然、思いついたものではありませんでした。
確かに外部からの影響で動いているなと思います。
外部からの影響で動いているからなんだって言う話になるんですが、
自分の考えていることは、自分が考え出したものではないということです。
つまり、考えていることは本当の自分が言っていることではなく、今まで周りから受けた影響の産物で、そんなものをいちいち間に受けなくてもいいのかもしれません。
勉強をしていればより高度な仕事ができるようになり年収が増えるだろう、と考えて勉強をしています。
それが楽しいのかというとそうではなく、異様な焦燥感を感じる時があります。
これはなぜかというと、本書でいう外部から影響を受けた結果の行動だからです。
自分の潜在意識は、「そんなことやらなくても良くね?」と思っているかもしれません。その上から「いや勉強しなければならない」といった「外部から受けら影響の産物」をぐちゃぐちゃに塗ったくっているため異様に疲れることがあるのかもしれません。
では、真の自分の考えというのはどうやってわかるのか。それは残念ながら本書には書いてありません。
「自分の考えなんてものはない、この人間社会事態が全て虚空のもの」と書いてあるような印象です。
まぁなので、自分が何をすべきか、自分は何がしたいのか、といったことは、いったん周りのいうこと(親、友人、家族、インフルエンサー、本に書いてることなど)全部抜きにして、自分で考えてみた方がいいみたいです。
そしてその考えはどこからきたのかをしっかり辿ったほうがいいですね。親が言っていたからとか、この人が言っているからとかそういうのが動機になっていたりしますので。
長くなりましたが、自分で考えていることは実は外部から受けた影響の産物であること、人間は自分の精神的安定を第一に行動すること、などといった考えは今後の人生において、何か決断をするときなど、「まてよ」と一つ下がって自分を客観的に見るきっかけになるなと本書を読んで思いました。
2021年6月読んだ本
今月から、月に読んだ本をあげていきたいと思います。
見返したとき「この時期はこれを読んでたのかー」と振り返るのも楽しそうだなと思ったからです。
では今月6月に読んだ本は
・自己肯定感を上げるアウトプット読書術:アバタロー
・幸福論:ラッセル
・人生の短さについて:セネカ
・読書について:ショーペンハウアー
の5冊でした。
本当はもっとあるんだけど、つまらな過ぎて途中で読むのをやめた本は省きました。
自己肯定感を上げるアウトプット読書術を読んでから、「ただ本を読んでいても意味がない」と思い始めこのブログに書評を上げるようになりました。
それからというものの、なんの本を読もうかと真剣になり、ショーペンハウアーの読書についてやら、佐藤優のおすすめ本やらを読んでみると、「古典がいい」と書かれていたので、古典を読むようになりました。
昔は古典なんて全然読めなかったのですが、今ではなんの抵抗もなく読めております。
書いてあることが抽象的で難しいですが、「これはこういうことだろうな」と考えることが多いため面白いです。かなり頭を使っていると思います。
昔「20代のうちにやっておくこと」みたいな本に岩波文庫の青を50冊読め、と書かれていましたが、こういうことかと今更ながら気づきました。
偉人たちの知恵を味方につけるのは心強い。
自分中に新たな読書術が見つかったので、しばらくは古典を読み続けたいと思います。
書評 読書について
”読書について”を読みました。
最近、読書の熱が再び入り始めたので読み返したくなりました。
備忘録として適当にまとめていきます。
読書とはなんだ
”読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない”
”読書とは他人にものを考えてもらうことであり、他人の考えた過程をたどるに過ぎない、丸一日を多読に費やする人間は次第に自分で考える力を失っていく”
読書をしても、他人の考えをなぞるだけなので本をたくさん読めばいいというわけではありません。
ではどうすればいいのかというと、本を読んで「あー面白かった」と済ますのではなく、自分の力で考えましょうということ。
そして、悪書は絶対に読むなと言われています。
悪書とは、金目的のために書かれたような本のことです。ハウツー本とか。
では、どのような本を読めばいいのかというと、ショーペンハウアーは古典を読むべきだといっております。
ハウツー本の寿命は1年程度ですが、古典は時が経ってもなお、読まれ続けるものだからです。
そして、自分にとって重要な本は何度も繰り返し読むべきとあります。
繰り返し読むことによって、内容が定着し、定着した内容を自分の頭で吟味することができるからです。
まとめ
・読書は他人の考えをなぞる行為
・読書した後、必ず自分で考えること。でなければ金と時間を浪費する
・ハウツー本ではなく古典を読め
・重要な本は繰り返し読んで自分の中に落とし込むこと
書評 人生の短さについて セネカ著
"人生の短さについて"を読みました。
セネカは約2000年前の人物で2000年前に書かれた本なのですが、現代に生きている私が読んでも、ハッとさせられることばかりでした。
巷に溢れている自己啓発本に書かれている元ネタのようなものがわんさかあり、「世の中は古典でできている」なんてことを聞いたことがありましたが、こういうことかと感じました。
自己啓発本なんて読まなくてもこれ1冊読んでおけばいいんじゃね?とさえも思ってしまいます。
自己啓発本が好きな人は一読の価値あり。
では例のごとく印象に残ったところを書いていてきたいと思います。
幸福な人生について
本書は、第一部が「人生の短さについて」、第二部が「心の平静について」、第三部が「幸福な人生について」となっています。
今回は第三部の「幸福な人生について」の部分の感想を書いていきます。
さっそく、第三部の初めの方に結論が書かれています。セネカの「幸福な人生」についての結論は以下です。
・幸福な人生は、人生自体の自然に適合した生活である。そして、それに到達するには次の仕方以外にはない。まず第一に、心が健全であり且つ健全さを絶えず持ち続けることである。第二に、心が強く逞しく、また見事なまでに忍耐強く、困った時の用意ができており、自分の体にも体に関することにも、注意は払うが、心配することはない。最後に、生活を構成するその他もろもろの事柄についても最新であるが、何事にも驚嘆することなく、運命の贈物は活用せんとするが、その奴隷になろうとしない。こう言った仕方である。
では、私なりの解釈を書いていきます。
第一の”心が健全であり且つ健全さを絶えず持ち続けることである”ということ。
これは読んだままの通り、精神の安定のことです。
悩み、不安、焦りといったものに苛まれながら日々を過ごしていても到底幸福にはなれません。安定した精神状態を持続させることが幸福な人生への第一歩だと言われています。
第二の
"心が強く逞しく、また見事なまでに忍耐強く、困った時の用意ができており、自分の体にも体に関することにも、注意は払うが、心配することはない"
という部分ですが、心が強く逞しく、忍耐強いということは、詳しくはどういうことかというと、第三部を読んでいくとわかりますが、快楽に溺れない心といったものです。
快楽のままに生きるのも楽しいですが、どこか焦燥感があるように感じます。
例えば、学校の宿題をやらないといけないのにもかかわず、ゲームをしている時など。
自分の本当にやらないといけないもの、やりたいものを疎かにして、目先に快楽選んでも、結局はもやもやとした物があり、真の幸福は得られません。
なので、自分がやらないといけないもの、やりたいものに対して、ブレず、忍耐強く成し遂げる心が必要だということです。
では後半の"自分の体にも体に関することにも、注意は払うが、心配することはない"
という部分について。
自分の身体にも気を遣い、健康に保つようにしましょう、その上で健康が害されても、受け入れて悲観したりしない、というような意味であると捉えています。
要するに、身体の健康を保つのは何よりですが、生きている以上、病に犯されたり、障害をもったりすることは当然あるので、「健康的にしてきたのになんでこんな目に」「病気になったからできない」「障害があるからできない」なんてことを思ったりすれば幸福な人生とは無縁になりますということです。
病気になっても幸福に生きている人はいるので、「なんでこんな目に・・・」といった感情がこそが何よりも自分を不幸にしているものなのです。
では最後の部分の
”最後に、生活を構成するその他もろもろの事柄についても最新であるが、何事にも驚嘆することなく、運命の贈物は活用せんとするが、その奴隷になろうとしない。こう言った仕方である”
について
何事にもいちいち一喜一憂せず、ただ受け入れる。ということです。
お金で例えますが、
貧乏になった、金持ちになった、といった時「貧乏になった終わりだー」とか「金持ちになったからハッピーだー」なんていっても無意味。
人生なんて、諸行無常で移り変わっていくものだから、その時々の状況に一喜一憂していたら疲れるだけでとても幸福にはなれない。
ただその状況を受け入れる、それが幸福な人生の送り方である。といった感じです。
なんとも説明しにくいのですが、金持ちだったら幸せ、貧乏だったら不幸といった「金」という概念に取り憑かれてしまうと、例え金持ちになったとしても、金を失った時精神的ダメージ計り知れず、金を失いたくないという恐怖にビクビクしながら生活するハメになります。
これは「金」だけではなく「学歴」とか「身分」とかにも当てはまると思います。
そういったものの”奴隷”になってしまうと不幸な人生になるとセネカはいっているわけです。
しかし、かといってじゃあ全部すっぽかして何もない状態がいいのかというと、そうではなく、なんか知らんけど巡ってきたもの(運命の贈物)は大いに活用してよしで、それが失われても大丈夫なくらいの心を持っておきましょう、というような感じです。
自己啓発本は古典の劣化コピー
長くなりましたが、私が印象に残った箇所の感想は以上です。
他にもいろいろありますが、私の言語能力ではとてもじゃないですがまとめきれません。
2000年も前からこういった本があったということに驚きでした。どこかで聞いたことあるような話ばかりで、自己啓発本のほとんどが本書の劣化コピー版のように感じられます。
自己啓発本が好きな人は合うと思いますので読んでみてください。